ÅLからLAまで | オーレ・エクセルは1918年にスウェーデンのコッパルベリ県で生まれた。14歳の若さで既に広告イラストレーターになることを決定した。第二次世界大戦と部分的に重なる1930-1941年の間にオーレはフーゴー・シュタイナー・プラーク教授の下でストックホルムにてイラストレーションとグラフィック・アートを勉強した。その後、スウェーデンのエルヴァコ広告会社に勤め始め、将来の妻と生涯の伴侶になるルーセル・エクセルともこの会社のお蔭で出会った。元々ファッション・デザイナーとして働いていたルーセルは、ヨーテボリから短いビジネス旅行のためにストックホルムに訪れたが、その場で二人とも一目惚れした。新婚夫婦は1946年にロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザインで学業を続けるために、ドロットニングホルムという蒸気船に乗った。戦争後に国境が新しく開いたのも運良くちょうどこの年のことであった。第二次世界大戦によって強いられた孤立から自由になった二人は世界を見て回ることを熱心に望んでいた。
ポール・ランド | アメリカ合衆国に辿り着いたオーレはポール・ランド、アルヴィン・ラスティグとレステル・ベアールのような同時期のデザイナーと接する機会を持つようになった。このうち、とりわけポール・ランドとの親交が深まり、二人の友情は一生続いた。しばしばお互いを訪問し、新しいアイデア、イノベーションやデザイン・プロセスについて語り合った。
オゴン・カカオ‐1956 | オーレ・エクセルは時代に先駆けたクリエイティブ・デザイナーであった。これは、結果的にスウェーデンにおける最初のデザイン・プログラムになったマゼッティ社宛てに創られた有名な「ココアの目」からも明らかである。エクセル夫婦はストックホルムのイェルデットに位置するアパートに40年以上も住んでいた。オーレがマゼッティ社とネッシム社のためにスウェーデンにおいて広く知られているデザインの全てをこのアパートの5㎡の面積しか持たないスタジオで作り出した。仕事中、オーレは自分のアイデアを詳細まで熟考し、頭で整理する前に絶対に紙に書き留めなかった。彼の集中的な態度はパジャマのズボンとTシャツを着ながらでも崩れることがなかった。
デザイン=経済 | オーレ・エクセルは優れたデザイナーと筆者のみならず、偉大な先見者でもあった。これは彼の「デザイン=経済」(1964)という、デザインと経済の重要な関係を明白そして優雅な議論を伴って持ち出した著作の中でも見られる。「良いデザインは単純に美的だけではなく、経済にとっても役に立つ。良いデザインは格好いいだけではなく、本当はものすごく真剣なものだ!」
名誉教授 | オーレ・エクセルはニューヨークの近代美術館、パリのルーヴル、それからベネチアのビエンナーレにおける国際展示会に参加し、ニューヨークのグラフィック・アート国際センターに本拠を置いていた国際タイポグラフィ審査員の一人としても活動していた。1985年にスウェーデンで広告界のプラチナ・アカデミーに指名された。2001年にスウェーデンの政府はデザイン分野における著しい貢献に対しオーレに名誉教授という称号を与えた。
閉じた目 | オーレ・エクセルの経歴はスウェーデンの広告史において未曽有のものであったと言える。彼の数多くのイラストレーションは常軌を逸するものから、幻想で満たされているものを通じて、抽象的な幾何学を表すものまで範囲が広い。オーレは自分の仕事が好きでたまらなく、生涯に渡って創造し続けたクリエイター・デザイナーであった。2007年にこの世を去るまで疲れを知らずに仕事を継続していた。
Timeline
1918年
カール・オロヴ(オーレ)レンナルトが1918年3月22日にスウェーデンのコッパルベリ県にあるÅlで生まれた。
1939-41年
教育:出版と広告芸術学校。ストックホルムにてフーゴー・シュタイナー・プラーク教授の下でイラストレーションとグラフィック・アート。
1941-45年
就職:エルヴァコ広告会社
1946年
結婚:7月4日にルーセル・グンズベルゲルとオーレ・エクセルの間
1946-47年
教育:ロサンゼルスのアートセンター・カレッジ・オブ・デザイン
1947-2007年
フリーランス:オーレ・エクセルAB
1947-1970年
本の表紙:ボニアー社、ワールストロムとウィドストランド社、ノルステッツ社、そしてコーペラティヴァ・フォルブンデットなどのために何百枚の表紙も作った。
1947年
展示会:レステル・ベアール、ウィル・バーティン、エドワード・マクナイト・コッファー 、ジョージ・ケペシュ、アルヴィン・ラスティグ、ポール・ランド、ハーバート・マッターとラディスラフ・スットナーと共にストックホルム国立美術館にてスウェーデンの歴史における最初のグラフィック・デザイン展示会を開催した。
1952年
AGI:国際グラフィック連盟に受け入れられた。
1952-1970年
記事:デザイン記事の筆者としてアフトン・ブラーデットに務めた。最初に書いた大見出しは「ジュースとポスター」であり、最後に書いたのは「全てが地獄に落ちる」であった。
1953年
ワイン・ラベル:マデイラというポルトガルの酒精強化ワイン
1954年
展示会:アルヴァ・アールト、ザ・スヴェドベルグ、ベルトリング、カール・アクセル・ペルソン、オーレ・ボニエ、ヴィオラ・グロステン、スティグ・リンドベリ、スヴェン・マルケリウス、アンドレス・ベックマン、アストリッド・サンペ、スレラン・メルネルと共に織物を展示した。
1956-1958年
グラフィック・プロファイル:マゼッティ社―スウェーデンにおける最初のデザイン・プログラム。
1958年
グラフィック・プロファイル:メルカ社
1959年
展示会:ニューヨーク近代美術館の梱包展示会にてスカンディナビアの代表者。
1960年
展示会:ロンドンにて開催された「Packing Perspective」という展示会に参加した国際的に一流のデザイナーとして認められていた6人の一人(日本の亀倉雄策、アメリカ合衆国のソール・バス、スイスのフリッツ・ビューラー、イタリアのアルベ・スタイナーとイギリスのウィリー・デ・マホ)。
1963年
展示会:スウェーデン、ルンドのホール・オブ・アートにおける梱包デザイン展示会。
著作:「デザイン=経済」
審査員:カナダのタイポ・ムンドゥス。
1964年
著作:企業設計プログラム。
グラフィック:アストリッド・リンドグレーンの映画「わたしたちの島で」。
1966年
受賞:「デザイン=経済」のデザインに対しライプツィヒにて銀メダル。
名誉会員:カナダ・グラフィック・デザイナー協会
1972年
グラフィック・プロファイル:ハンデルスバンケン
1975年
審査員:ESAG美術学校
受賞:著作のデザインに対しイスラエルにて銀メダル
1976年
審査員:ESAG美術学校
1980年
グラフィック・プロファイル:スウェーデン弁護士会
1985年
栄誉:広告界のプラチナ・アカデミー
1986年
取締役:ストックホルム近代美術館
1988年
グラフィック・プロファイル:ストックホルム近代美術館
1990年
取締役:プラチナ・アカデミー
1991年
客員教授:ストックホルムのKonstfack大学(スウェーデン国立美術工芸大学)
1993年
栄誉:日本の「アイデア」雑誌により世界のグラフィックデザイナー100人の中に選ばれた。
1999年
著作:XL―四冊合わせて出版(「デザイン=経済」、「典型的な仕事」、「策定」、「私の瞬間」)
2000年
栄誉:AIGのメキシコにて開催された会議に基調演説者として招待された。
展示会:マルメとストックホルムにおける寿命展示会
2001年
栄誉:スウェーデンの政府により名誉教授という称号を与えられた
2006年
著作:日本にて「オーレ・エクセル Swedish Graphic Designer」という本が出版された。
2007年
…そしてその後…彼は目を閉じてしまった…4月11日の午後3時にこの世を去った。